top of page

「えんがちょ切った、鍵かけた、山の神様あずかった……」
節をつけていっ歩、いっ歩と跳ねるたび、春泥のやわらかな滓がぴしゃりとブーツに跳ねる。
溶けた土のにおいが愛しくて、私はわざと、いっ歩、いっ歩、日差しのなかを跳ね歩く。
しゃらしゃらと木漏れ日の音が聞こえてきそうな森のなかに、声は朗々と響いた。
「山の神様あずかって、川に流れて、ゆび切った……」
妖怪の山、麓の森。好奇心旺盛なネズミや飢えた野犬も近寄らない、穢れたこの土地にも、春が訪れていた。
「えんがちょ切った、鍵かけた、山の神様あずかって、川に流れて、ゆび切った――」
歩くたび、泥が足を汚すのを、厭わずに歩く。
まだ根雪が残るなか訪れた陽気は、樹海と忌まれる深森に捕らわれて湿った熱気を作っており、山裾に吹き下ろす緑香混じりの風が、わずかばかりの清浄な空気を感じさせる。
薄く差す木漏れ日が冬のあいだに根付いた雪を溶かし、森の地面に春泥の道を作っていた。
氷雪をほぐし、春を告げる穢れの道。
まるで私のために用意された案内道だ。
私――鍵山雛は、妖怪の山の麓を根城に過ごす野良神様。仕事といえば人間の厄を引き受けることだけれど、私自身は疫病神だと忌み嫌われている。
厄が生まれた経緯は悲劇だけれど、私自身は悲劇ではない。むしろヒロインめいた扱いが私の力の源だ。
つまり、私は大して仕事もなく、普段はその辺をぶらぶらしているだけの神様で、今日もそうだった。
陽気に誘われて散歩に出かけ、森の中で春泥の道に出会い、心誘われるままに道の行き先を辿ることにしただけ。
くすんだ残雪を左右に残した泥の道は、くねくねうねり、ときおり飛び石のように離れる、愉快な道だった。陽気に誘われた動物のものか、ときおり泥の中に可愛らしい足跡を見つける。野ウサギだったり、リスだったり。
彼らは雪溶けた地面を辿る私とは反対に、雪の上に茶色い足跡を点々とつけて、森のどこかへと通り過ぎて行く。足跡からその姿を幻視して、くすくすと笑った。
厄神は動物たちにも好かれないから、積極的にそういう姿を見たことはないけれど。
山裾をぐるりと辿るように探検をしている途中だった。
ふと言葉が口を突いて出た。
「あら? どちら様かしら?」
立ち止まり、足元を注視する。
行く先の泥の中に、ちょうど私と同じくらいの大きさの、靴跡があった。
「ふーん。少なくとも動物じゃないわね」
妖怪か、もしくは人間か。
天狗の領域には到らなくても、ここいらは妖怪の山。厄神である私のほかにも、河童や他の妖怪たちがうろうろしている。
――人間だとしたら、これは災難だわねえ。
足跡に近寄り、ぴったりとくっつけるように、ブーツを並べる。
そこから足跡の主を追いかけて、いっぽ、いっぽ、道を行く。
「えんがちょ切った、鍵かけた……」
どうやらこの足跡の主も、私と同じく雪溶けの泥道を選んで歩いている様子だった。
「女の子かしら」
しばらく辿ってみて、そう思った。足跡はちょうど私が歩くのと間隔で山の中を進んで行った。
やがて森が深くなると木漏れ日が絶え、雪が深くなる。
泥の道も途絶えてしまった。
それでも足跡の主は止まらず、雪に足を埋めながら山の中を進んだようだった。
その場に立ち止まり、ずーっと視線で追いかけていくと……泥に汚れた足跡はやがて雪に拭われて、靴裏だけを残して続く。そこから離れると、もう目では追い切れなくなった。
「……あ」
しかし視線の先に、私は色彩を見つけた。
黒い服を着た少女が、森の中でしゃがみ込んでいるのが見えたのだ。
ちょうど山裾に吹く風がひゅうと吹いて、肌を冷たく撫で、金色の髪をわずかに揺らすのが見えた。
私は足跡を追いかけるのをやめて、少女の背中を目印に、さくさくと雪を踏んで歩いた。
少女はしゃがみ込んだままこちらに気がつく様子もない。
しかし手の届く距離まで近づいたところで、不意にこちらを振り向く。
「げっ」と言いながらぎょっ、となった顔には見覚えがあった。
「あら、貴女は確か人間の子」
「ほかの何に見えるって言うのさ」
足跡の正体。その少女は、霧雨魔理沙だった。
「人間は駄目よ。この辺りは危険なのだから」

​(以上 サンプル)

bottom of page