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茜色に染まった一葉に、少女の唇を思い出す。
切り立った山峰に立ち、秋が明々と燃える神奈備の舞台を見下ろし、目を楽しませているときのことでした。
天狗の風か、ひゅうと一葉、紅葉が火の粉のように私の前をよぎったのです。
それは空にかかる白雲に映えて、紅白の装いを私にみせました。
そのとき、はっと、少女を私に思い起こさせたのです。
少女が乙女になる時期はいつでしょうか。それは唇が紅色に染まったとき。
体を抱き寄せたそのときに、微笑むようなふくらみを感じたとき。
それとも、足元から匂い立つ椿の香りを漂わせたとき。
私が思い出したのは、ひとりの少女の唇でした。
私はその少女を「霊夢」と呼びました。
彼女は私を「山の神様」あるいは気軽に「神奈子」と呼びました。私──八坂神奈子は、この妖怪の山の上にある神社に住み、山の妖怪からの信仰を得ています。
本来であれば、神様である私のことは尊称をつけて呼んでほしいところですが、なぜか霊夢にはそれが許される不思議な雰囲気をまとっているのです。
霊夢、と唇を食む。
私のつぶやきは、山峰なら見下ろす秋の景色のなかに、音もなく消えていきました。


【ようこそ守矢神社へ】
真っ白に塗った板に、黒々と文字の書かれた看板が立っているのを見て、私はやれやれと嘆息した。まるで外の世界の観光地のようだ。
早苗に任せると、何でも俗っぽくなってしまっていけない。風情というものを勉強させなければ。
私は視線を山の向こうへと移した。
秋に山が燃えていた。
私――八坂神奈子、は山の上の神社の近く、切り立った山嶺に立ち、風光明媚と見える山麓を見下ろしていた。
ひとつ残念に思えるのは、空には雲がかかり、墨を薄く流した色がしっとりと空気を重くしていることだろうか。
雨が水を差すのではないかと、信徒からは声が上がっていた。
私は腕まくりしてそれに答えた。大丈夫。案ずることはない。
今日は、毎年の恒例となった守矢神社秋季催事。
しかも、今年は特別なものだ。
守矢神社が山の上に立って以来、初めて秋祭りに人間を招待したのだから。
それにしても、昼まで降り出さないでいてくれたのは幸運だった。朝から降り出していたなら、さすがに祭りを延期しなければならなかったかもしれない。
そうなったら妖怪たちは大騒ぎしただろう。人間なんかのために、祭りをやめるのか、と。
山の麓からこちらに向かってくる人間たちの一行の姿が見えて、私は目を細めた。
ロープウェイのゴンドラに揺られて、景色を指さしたり、はしゃいだりしている人々の姿が見える。
私の背後に広がる神社の境内からは、先に上って来た皆々の威勢のいい声が聞こえていた。
麓から来た者たちにとっては、どれもこれも初めての体験のはずだ。禁足地である妖怪の山の、美しい秋の景色の中に、身を投じるというのは。
曇り空より風が吹き、高山の冷えた空気が肌を撫でるのに、一向に熱気がひえる気配などない。
天狗がいる。河童がいる。山に住む八百万の神様もいる。そして、人間たちがいる。
境内を囲んで立つ屋台を出しているのは妖怪たちばかりだが、彼らは人間の似せ姿をして、今朝からせっせと鉄板焼きのいい匂いをじゅうじゅう焼いて漂わせていたり、金魚妖怪すくいの釣堀を波立てていたり、遠眼鏡の貸し出しをしているものもいる。
人間たちも、こんなに歓待されるとは思わなかっただろう。
これも全て山の神様の為せる業だと噂する声が聞こえて、私はひとりほくそ笑む。
妖怪と人間とを一所に集めるのは大変だ。大変だが、確かに意味がある。
そしてこれからも意味を与えていかなければいけない。
妖怪の山に建設した架空索道──守矢索道。
ごうん、とひとつ、大きな獣があくびするように体を揺らして、ゴンドラは駅へとたどり着いた。
乗客たちが吐き出されて、次々に感嘆の声を上げる。最後に、巫女服をまとった少女が降りてくる。
私が高見にいるのに気がつくと、飛翔して私のいる高さまでやって来た。
案内役の勤めを労って、私は微笑む。
「ご苦労様。問題はなかった? 早苗」
守矢神社の――つまり私の巫女の、早苗は満面の笑みでうなずいた。
「はい! 天狗たちからも、結局は何の行動もありませんでした。快適な空路を楽しんでいただけたと思います!」
「そう。それは良かった。……あら?」
ちょいちょい、と私は早苗を手招きする。
「……神奈子様?」
その肩を軽く抱き寄せて、彼女の乱れていた髪を手でなで付けるようにして直してやった。
早苗はされるがままに、髪を撫でられて、恥ずかしそうにうつむいている。
「よし」
私は満足して、そっと体を押して離した。
「ふふ、髪が跳ねていたわよ?」
「す、すみません。乗客の方々が興奮して外を見ようとするので。ちょっと大変でした。あんまり縁に寄ると危ないと言っているんですけどねー」
「あんまり聞かないようなら、落としてもいいのよ?」
意地悪く言うと、早苗はぴしゃりと声を上げた。
「そういうわけにはいきません!」
張り切って、人々の安全がうんぬんと語る早苗は微笑ましく、くすくす笑ってしまう。
「さあさあ、早苗。到着した人たちを案内してあげないと」
そして私は、ピン、と指を一本立てて言った。
「――そろそろ、雨が降るわ」
「あれ……やっぱり駄目ですか」
早苗は空を見上げると曇り空を見上げた。目が丸く、口がへの字になる。
「せっかくのお祭りですのに。雨で水を差されるなんてついてないですねえ。紅葉も見頃なのになあ」
「大丈夫、準備はちゃんとしてあるわよ」
「そうですけどー……」
ぽんと頭を叩いてなだめてやって、私は早苗を促した。
「ほら、下で呼んでいるよ。早く行った行った。雨が降る前にね」
早苗は少し頬を赤くして「はい」と力強くうなずくと、下にたむろしている人間たちの元へと向かった。
すぐさまに人々をテントの方へと誘導する声が聞こえる。
朝から雨が降ることは予想されていたので、河童に頼んで神社の境内付近に簡易のテントを張ってもらっていた。防水シートを棒で張って天井を作っただけのものだが、十分だろう。
早苗と入れ違いでこちらに向かってくるものがある。
人混みにも目立つ、紅白の衣装を纏う少女。ふわりと空気に乗るように飛んで、私の前にやってきた。
少女は博麗神社の巫女。博麗霊夢。

​(以上 サンプル)

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