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東深見高校の2年生、宇佐見菫子は充実した毎日を過ごしていた。
 
友人であるクラスメイトたちと賑やかに過ごす学校生活。
秘封倶楽部の新入部員と放課後に喫茶店でだらだら過ごす日々。
勉強の話や、お菓子の話、恋の話。
彼女の生活は、そんなものに彩られていた。
そこには昨年までの孤高の秘封倶楽部会長の姿はない。
変哲のない、女子高生の姿があるばかりである。
ある日、後輩の部員に部活動と称しての、
「小旅行」に誘われた菫子は――
これは〝宇佐見スミレコ〟の物語。

プロローグ

 


 この世界には嘘が満ちている。菫子はそう考えていた。
 菫子は勉強が好きだった。算数や理科の勉強をするのが好きだ。社会で歴史の勉強をするのも興味深い。国語は嫌いだったけど、絵本や漫画は好きだった。
 でも誰も、菫子が持つ超能力について教えてくれなかった。先生だって答えられない。誰も答えられなくって、菫子のことを笑うばっかりだ。
 だから菫子はもう他人に聞くのをやめた。超能力を持っていることは菫子だけの秘密。
 インターネットが好きだ。情報の大海から知りたいことを探すのは、物語の冒険にも勝る。菫子の発問に対する手がかりは何でもそろっている。学校の授業中より、家でパソコンの前に座っているとき、菫子は鉛筆の芯をすり減らした。教科書に書いてあって気になったこと、そこから連鎖的・類推的にどんどんいろんなことを調べた。ノートにたくさん積み重ねて「研究資料」と呼び、机の中に隠した。
 ランドセルの中身はどんどん軽くなっていったのに、引き出しの中のノートはどんどん重たくなっていった。
 それでも、最大の謎の答えは見つかっていなかった。
 菫子の持つ超能力はいったいどこから生まれたのだろう? 誰も答えられない。宇佐見菫子自身でさえも。
 だから菫子は勉強をする。誰も教えてくれない秘密を暴こうとする。この世界は嘘が満ちている。超能力は――ある。オカルトは――存在している。不思議は――身近にある。誰も彼も、誰も彼もが吐いた嘘に惑わされている。菫子は騙されない、そのために知識を集める。知恵をつける。能力を高める。秘密へ到達してみせる。
 ――私だけがこの世界の真実に到達できる。世界の嘘を見抜ける。
 ひたすら勉強に没頭するうちに、いつの間にか菫子はひとりになっていた。
 小学校の頃には頭がいい彼女のことを慕ってくれる友人たちがいたが、中学に上がってからはもう彼女の周りに誰もいない。コミュニティの外側にいた。
 群れる彼らの嘘に塗れた世界を遠目にひとり立つ。風通しがよくなって、菫子はせいせいしている。
 ――まずひとつ、私は世界から脱出した。愚鈍な彼らの世界から。まだまだ世界全体からは抜け出せていないけれど、いつか、必ず。
 ひとりになったのではない。菫子が彼らを捨てたのだ。 
 中学生になった菫子はよく笑うようになった。ひとりきりで。
 宇佐見菫子の中学校時代は、そうして過ぎていった。

 

   *
 

 人気の無い深夜の道を、息を切らして駆けていた。
 もうすぐ夏休みという時期で、暗がりの空気は生ぬるく肌を撫でた。半袖に短パンという格好で、菫子は走る。赤いフレームの眼鏡が顔からずり落ちそうになり、あわてて手で押さえた。ぬるりとした汗の感触が鼻をこする。
 この眼鏡は大切なものだ。
 菫子は思い出す。
 ――あのひとは、今まで菫子が会ったなかでいちばん正しいひとだった。
 約束の時刻が近づいていた。深夜の指定だったので仮眠をとっていたところ、寝過ごしてしまったのは誤算だった。中学生になって、夜更かしは当たり前になっていたというのに。
 こんなに必死に腕を振って走るのも、ずいぶんと久しぶりだ。
 やがて白い校舎が見えてきて、校門に辿り着いてタッチする。立ち止まり、荒い息をはあはあと吐いて整えながら顔を上げる。
 校門には『東深見高校』と書かれたプレートが填められている。
 午前1時50分。
 校舎の前庭に立つひょろ長い時計塔は、だれもいなくても刻々と廻っている。針のめぐる文字盤を外灯がうすく照らしていた。白いペンキで塗られたその鉄塔は、夏の夜にいやに陽気に見えた。
 ポケットからスマートフォンを取り出して電源を入れる。画面に表示された時刻は2時6分。しかるにあの時計塔は、だれもいないときにはこっそりさぼっているのかもしれない。
 ――間に合った。
 菫子は安堵する。まだ約束の時刻まで時間がある。
 スマートフォンをポケットに仕舞うと、人気がないのを確認して校門の陰から歩み出た。この時間に出歩く者などいないだろうが、小走りで前庭を駆けて校舎へと向かう。
 まだ中学生である菫子にとって、私立高校、まして地元から少し離れている東深見高校は未知の場所であった。しかし恐れることはない。下見だけは、昼間のうちにしておいたのだ。
 玄関戸の前まで来る。ガラス戸の向こうは外とは違い、暗闇が広がっていた。中学でも見るような下駄箱の四角いシルエットに少し安堵する。
 すると、ドキドキと胸が高鳴っているのに気がついた。
 ――緊張しているんじゃない。興奮しているんだ。
 真夜中に知らない学校の校舎に忍び込むなんて、菫子にとっても初めての体験だ。
 そっとガラスに手のひらを当てる。ひやりとして冷たい。
 ――ドアにセキュリティが付いているのは判ってる。解除せずに開けたら、警備会社に連絡がいくだろうけど。
 菫子は目を閉じて集中した。体を振り回されるような一瞬の感覚。
 目を開ける。
 さっきガラス戸の外から見た下駄箱が目の前にあった。校舎の暗い奥行きが先よりもはっきりと見える。
「よし……! 侵入成功っ!」
 振り返れば、さっき自分が立っていた外の景色が見える。
 菫子はセキュリティの付いたガラス戸を開けることなく、テレポーテーションで校舎への侵入を果たした。
 土足のまま堂々とした足取りで廊下を進んでいく。目指す場所は屋上だ。菫子はスマートフォンのライトを点けた。
 昼間は生徒たちが大勢いるのだろう廊下も、教室も、今は異世界のように静まり返っている。
 校舎の暗闇を進んでいくのは、ゲームの主人公になった気分だ。まして菫子には〝超能力〟がある。たとえ、ゾンビだろうとモンスターだろうと、倒してしまってよい相手ならば負ける気がしない。
 階段を3階まで上ったところで教室が並ぶ廊下の方をのぞいてみたが、人影は見当たらない。肩透かしを食らったように思いながら、さらに上へと階段を上ると、鈍い銀色の扉に突き当たった。きっと屋上へと通じる扉だ。
 ライトを消すと途端に暗闇が落ちた。普段使っていないためか妙に埃臭い。扉に付いたノブだけが、ぼうと浮かんで見える。それを無視して、ざらりとした扉に手のひらを当てる。菫子は玄関でやったときと同じくテレポーテーションするために、意識を集中した。
 夜風が髪の毛をなぶっていった。
 目を開くと、明々とした星空。空が広かった。ビルはこの辺りにはないから、菫子の足元から上、全部が夜空に見えた。
 屋上の広さは教室一つ分くらいで、緑色のウレタンゴムの床は踏み心地が頼りない。端の方まで歩いて行くと、向かい側にもうひとつの校舎の屋上が見える。こちらの屋上と、向こうの屋上の間には3階分の高さ――およそ13メートルの暗闇が隔たっている。地面はアスファルト。
 谷底に落としていた視線をあげて、菫子はイメージする。
 力が体全体を膜のように覆っていく。手足を操り、浮かび上がる。自分は空中を泳ぐように自在に動き回ることができる。イメージするのだ。空を飛ぶ、イメージ。
 ふわ、と踵が屋上の床から離れた。上方に引かれる力に乗っかって、足首からぶら下がるつま先で床を蹴る。菫子の体は完全に宙に浮かび上がった。
「大丈夫、いける……!」
 超能力のなかでも〝飛行〟は難しかった。まだ完全に操るまでには至らない。サイコキネシスやテレポートは漫画やアニメのなかの超能力者がよく使っているけれど、生身の単独飛行というのは、なかなか参考にできるものがなかった。
 菫子は浮かび上がったまま空中で体を倒してうつ伏せになると、ウルトラマンみたいな恰好で両手を前に突きだして校舎の間の暗闇を飛び越えた。格好悪いが、どうしてもこうなってしまう。
 反対の校舎の屋上まで飛行すると、発揮していた力を解いて着地。こちらの屋上からは、さっきまで陰になって見えなかった小高い丘が見下ろせた。
 ポケットからスマートフォンを取り出す。
 午前2時15分。
 GPSアプリを起動させる。これで時刻と、今向いている方角がわかる。
 今日は7月7日――七夕だ。夜空には幸い雲は見当たらない。天の川は奇麗に流れている。彦星と織姫は今夜の再会に備えて眠っているころだろうか。それにしてはきらきらと光っているから、まだ準備をしているところなのかもしれない。
 菫子が通う中学校の下駄箱のところには、七夕の笹が飾られていた。中学生にもなって星空に願いを、なんて子供っぽいと思ったけれど、脇に置かれた机の上の短冊は結構人気があって、男子や女子が書いた願いごとはたくさん吊るされていた。笹は重そうにたくさんの短冊をぶら下げていた。
 菫子は登校した朝にそれがあるのを見つけると、すぐに短冊に書いて吊るした。
 ――なにか面白いことがありますように。
 別に信じていたわけではない。けれど、つい先日に興味深い出会いをした。
 彼女が言っていた約束の時刻は、2時22分。

『7月7日。午前2時22分。東深見高校の屋上へ行きなさい。そして、今から言う方角を見ていること』

 スマートフォンのアプリを再度確認する。画面に星空の光が映りこんでいた。
「北緯―よし。東経―よし。この方角ね」
 まもなく時刻になろうとしている。菫子は顔を上げた。
「2時22分!」
 始めは雲が出たのかと思い、すぐに違和感を覚えた。空に亀裂が入っていたのだ。真黒い線が空に走り、星空の光が消えている。亀裂は徐々に大きく開いていった。まるで、閉じていた目蓋が開くように、ぐぐっとそのまなこを菫子に向けて。大きい。夜空の三分の一くらいがその亀裂に飲み込まれて……真っ黒な内側をみせていた。
「なに……あれ……」
 そのとき、視界のほとんどを埋める亀裂の内側が、一気に色彩に色付いた。まるで絵の具をさっと水に溶かしたように、空の色が変わった。
 空の半分が夕暮れの色に染まり、半分が夜の色に染まる。そして、夕暮れと夜の境目の空の真ん中に、ひとりの少女が浮かんでいるのが見えた。
 遠くて表情までは窺えない。けれど、その金色の髪が夕暮れと夜の光を半分ずつ受けて美しく輝いていた。
 少女が裂けた空の向こう側からこちらを見た――はっとしたとき、その姿は消えた。
 そのあとに残っていたのは、まばゆいばかりの白い光。
 夕べと夜の境界の空はいつの間にか消えて、見たこともないほど輝いた満月の空に変貌している。銀色の大皿みたいに、おおきくてぴかぴかの満月の白い光。
 それは、菫子が見たことがない――気が狂うほどに美しい幻想の夜空の色だった。
「すごい。本当にあったんだ……。幻想郷!」
 菫子は思い返していた。
 この時間、この場所に、この方角を見るように、菫子に言った女の人のことを。
 彼女は自分のことを指してこう言っていた。

    『秘封倶楽部――私はそういう名前のサークルをやっているわ』

 

「秘密を暴くもの――秘封倶楽部……!」
 菫子はスマートフォンのカメラを夜空に向かって掲げた。
 カシャリ。
 異世界から降り注ぐ狂気の光を全身に浴びて、菫子は学校の屋上に立ち、満面の笑顔で笑っていた。

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