top of page


 ジリリリン。ジリリリン。
 ジリリリン。ジリリリン。
 聞こえる黒電話の着信音は、さざ波のように遠くからやってきて耳朶を震わせる。音は近づき、その生ぬるい温度で目を覚ます。まぶたは濡れたように重たかった。
 午睡の空気が満ちた部屋には夕日の色が差していた。壁紙の白とフローリング、他には大きめのベッドがひとつ。集合住宅の殺風景な一室は、オレンジ色に焼けついている。
 紫はベッドで眠っていた体勢のまま、ぼうとする。汗ばんでいた。喉が渇いていた。なにか夢を見ていた。
 ジリリリン。着信音は鳴り続けていた。ジリリリン。
「また、菫子の夢……」ようやっと気がついて口を開くと、ひどく掠れた声が出た。
 がなり立てて震えているスマートフォンを手に取り、着信相手を見る。
 ―『宇佐見菫子』。
「はい……」けだるく寝そべったまま、電話にでる。
「あっもしもし、紫?」と、菫子の声が飛び出してきた。「今夜部活やるから、8時に喫茶店で。オッケー?」
「……オッケー」
「よろしく!」
 ―通話時間、9秒。
 コールしていた時間よりよっぽど短い。この程度の連絡なら電話せずに、メッセージ一つ送っておいてくれればいいのに。
 紫はスマートフォンを握った手を布団の上に落とす。ぼすん、と跳ねて再びベッドの上で弛緩する。やわらかい反発を心地よく思いながら目を閉じた。
 次に目が覚めたのは菫子から2回目の電話がかかってきたときで、日は沈み、部屋の中は真っ暗になっていた。
「ごめんごめん……」
 わざわざ電話で連絡をしてくるのはそういうことだったのか、と謝罪しながら納得する。
「わかっているんならさっさと来る―というか、こんな時間から二度寝しないよフツー」
 ―まあ普通の女子高生は、帰って来て昼寝からの二度寝なんてしないでしょうね。けど私たちの部活動は夜に始まることがわかっているのだからその前に充分な睡眠をとっておくことは重要じゃない、と言い訳している途中で菫子が切れた。
「今日は紫の奢りね」
 寝ぼけた鼻先を、ふわふわの甘いクリームの香りがくすぐったように感じて、目が冴えた。

「―20時40分」
 着いたところで、顔を上げてつぶやいた。
 夜の駅前。人が行き交う頭上にライトアップされた時計塔が時刻を示している。ちょうど電車が到着したところだったのか、大勢の人々が駅からはき出されてくる。
 人波を避けるように紫は歩き出した。菫子との待ち合わせの喫茶店はここから少し行ったところにある。信号を渡り、大通りを歩く人の流れから外れた道に折れると、夜の濃度が増した。街灯の少ない道の左右にまばらに赤提灯が点るのを横目に行くと、やがてほのかに黄色の明かりをこぼしている店がある。
 『cafeMIRAI』と看板が出されている。紫は21時の隙間にすべり込んで喫茶店の扉を開いた。
 いきなり賑やかな声がして目を向けると、店奥のテーブルで数人の女子高生が盛り上がっている。紫と同じ東深見高校の制服だ。こちらは私服だから、同じ高校の学生とは気づかれないだろうか。
 一瞥してカウンターの席に着き、マスターにカフェオレを注文する。女子高生のほかに居る客はどれもひとり客で、おのおの時間をやり過ごしている様子だった。
 座っていると視線を感じて、ちらと奥のテーブル席を窺う。赤いフレームの眼鏡をかけた少女が、女子高生の一団のなかからこちらを見ていた。ウインクひとつを返して向き直る。
 紫は鞄から文庫本を取り出すと、挟んでいた栞を整えて読み始める。向こうに会話の声を聞きながら、やって来たカフェオレをあたたかく迎えて、しばらくのあいだ時間を楽しんだ。
 やがて女子高生の一団の声がひときわふくれ上がったと思うと、解散の運びとなったらしい。ぱらぱらと別れの挨拶が告げられ、店の扉が開き、閉じ、ぱったりと店の中に静けさが落ちた。
 開いた文庫本に栞を挟んで仕舞って、紫は立ち上がった。
 赤いフレームの眼鏡をかけた少女―菫子、はひとりテーブル席に残っていた。そちらへ移動する途中で向こうから声がかかる。
「あ、紫。ホットコーヒー追加でお願い」
 いま立ったカウンター席の方を振り返ると、ちょうどマスターと目が合う。聞こえていたのだろうか。「ホットコーヒーを1つお願いします」と言うと、はい、と低い声。改めて菫子の居る席へと向かう。
「ありがとう」
「クラスメイト?」
「うん。駅前の塾に通ってるひとたち」はー、と菫子は息を吐いて伸びをした。「ばったり会っちゃってさー。なんか話の流れで勉強教えることになっちゃってー、教えてた」
 私との約束が先だったのに、と思いながら紫は言う。
「9時36分」
「ごめんねー。……でも、もともと遅刻したのは紫じゃない。駅前で待ちぼうけさせられてなきゃ、あいつらと出くわすこともなかったんだし」
「ダウト。菫子は私が遅れるって判ってたじゃない。それにその前は用事があるって言ってた」
 バレたか、と菫子がおどけてみせたタイミングでマスターがホットコーヒーを持ってきた。ありがとうございます、とにこやかに応える。
「何の本を読んでたの?」
 紫はちらと鞄に目をやる。「最近話題の恋愛小説よ。なんだったかしら……映画化するとかいう」
「ふーん。つまんなそうね」と、菫子は熱いコーヒーをブラックのままちびりと飲む。
「あら。そんなことないわよ。主人公が滑稽でねえ」
「だってタイトルも覚えてないような本でしょ? それより現実の恋のほうが、よっぽど奇天烈な気がするわー」
 菫子は勉強を教えていた、と言っていたが漏れ聞こえていた会話を聞く限り、クラスメイトたちと盛り上がっていたのは恋の話だったようだ。それも菫子が会話の中心にいたように思う。はっきりと聞こえていたわけではないけれど、紫は自然と笑みが浮かんだ。
「へえ。菫子も恋なんてするの。大変でしょうね、その相手は……」
「乙女だもの。私だって誰かを好きになったことくらい、あるわ」
「……フられたの? フったの?」
 意地悪く訊いてやると、菫子は「むう」とひとつ唸ってから、頬を掻き、コーヒーをすすり、口をとがらせて明後日の方を向きながら、ぽつりとこぼした。
「フられた」
「ぷっ」くつくつと紫は笑う。「後悔しているの?」
「まあ、ちょっぴりはね」
 菫子は顔を隠すように眼鏡のブリッジを押さえた。
「最初はそのひとの名前も知らないまま別れたのよ。あとでたまたま名前を知って、そのあともいろいろ助けてもらったりして……。何度か会ううちに、なんとなく惹かれる気持ちがあって……ニヤニヤすんなー!」
「してないわよぉ。へーほーふーん、それで?」
「ううん、なんというか。オカルトを探求しているときの興奮と、それは似ていたわ。そのひとは……とてもさっぱりしていたの。ちょっと現代じゃ考えられないくらいにね。そこに惹かれたのかもしれない」
 そこまで語って、目を潤ませていた菫子は「やーめた」と告げた。「この話はナシ!」と。
 菫子が惹かれる人間がいるだなんて紫には信じがたかった。
 中学時代には孤独を愛し、去年には大勢の人間を裏切るような行為をしていた彼女が、今ではクラスメイトと打ち解け、恋の話に現を抜かしている。
 紫がもっと聞かせろとせっついてみたが、あとは澄ました顔で沈黙するばかり。終いには眼鏡の手入れなど始めてしまったので、諦めることにする。
 そもそも、ここへ来たのは恋の話をするためではない。
「あら。そうだったわね」
「そうよ。あなたが呼び出したんじゃない〝秘封倶楽部〟の活動をするって」
 めんごめんご、と言いながら菫子が学生鞄からタブレットを取り出す。黒地に六芒星が金色で描かれたカバーはいつ見てもうさんくさい魔道書のよう。
 さながら菫子は魔法使いで、タブレット上に白い指を走らせている。やがて呪文を唱え終わったのか、紫に画面を見せるようにして卓上に置いた。
「それじゃあ、始めましょうか」
 時刻は9時55分を示していた。

bottom of page