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扉があった。世界の何処にある扉なのかは知らない。でも誰の部屋の扉なのかは知っている。そういう扉だった。
夢を見ているな、と気がつく。
この扉の先にある部屋の主は、オカルト好きで超能力を持った少女であることを知っている。
宇佐見菫子だ。
夢の中で彼女と会うとき、大抵は東深見高校にある部室か、宇佐見菫子の自室であった。この扉の前に案内されたということは、菫子はいま部屋の中にいるのだろう。
一応確認のため、自分の記憶に訊ねてみる。
今日は夕方に駅近くの喫茶店『cafeMIRAI』に行った。それから友人とおしゃべりをして、喫茶店の支払いは自分の奢りで、駅で別れて家に帰ってきた。寝る前にすこし本を読んで、ベッドに入った。
うん、とひとつ頷いて納得する。
そして腕をあげると、目の前の扉を3回ノックした。
※
暗い部屋のなかで、デスクライトの明かりだけが点っていた。
宇佐見菫子は黙々とペンを動かし続ける。ノートの上に文字が書き連ねられていく音だけが、新雪を踏みしだいていく足音にも似て静かに流れ続けていた。
彼女を知るものがその真剣な横顔を見たら、おや、と首をかしげたかもしれない。いつも顔を彩っている赤いフレームの眼鏡が、その顔には無いからだ。
レンズ一枚の隔たりが無いだけで、裸になった宇佐見菫子の眼差しは爛々と強い。その目があまりにも毒だから、ぼやかして見せるために眼鏡があったのだとすら思える。
一心不乱に宇佐見菫子はノートにペンを走らせている。
そのノートもペンも、彼女自身が部屋に持ち込んだものだった。そうしなければ、世界の終わりとともに記述した何もかもが失われていただろうから、偶然それらを持ち込んだことは幸いだった。
最もここに閉じ込められた時点で、不幸の方が勝っているには違いないが。
―だからどうしても宇佐見菫子に惹かれてしまう自分がいる。
声には出さず、唇を曲げて笑う。彼女に気づかれないように。
〝悪いこと〟が好きだ。自分自身は手を下さず、他人に不幸が起こっている現場に居合わせたい。理不尽で不公平で理由もなく慈悲もなく暗く為す術なく人間が不幸になっているところに居合わせるのが好きだ。
そう、人間だ。やはり悪夢は人間のものに限る。
舌が焼けつくほど甘いベリーの実。いま夢の世界に居る宇佐見菫子はどんどん熟している。
獏の妖怪である自分が夢の世界を管理するようになって久しいが、これほど惹かれることは珍しい。固執はよくないから、辛抱利かないときだけ顔を出すとしても、ひとりの人間に関わるにしては頻度が多い自覚はあった。
しかたない。しかたない。
何かと戦っている背中を見つめながら、ほうと熱っぽいため息を吐く。恋かもしれない。
だって宇佐見菫子は、世界にとって良質の悪夢そのものなのだから。
「いつからいたの? ドレミー」
椅子に座った宇佐見菫子が振り返り、こちらを睨みつけていた。
その視線をドレミーは受け止めた。嫌われているな、と思いながらにやにや笑う。菫子の燃えるような視線がひりひりと心地よい。
ドレミーはベッドの上に頬杖ついて腰掛けていた。あどけない少女の顔に、意地悪い表情を浮かべて。艶やかな黒の髪を結い上げて赤いナイトキャップを被っている。黒白のドレスに、黒白のポンポン飾りのついた服装。尻のあたりからは牛の尻尾がしゅるとシーツの上に弧を描いていた。
「そろそろ諦めたらどうです?」ドレミーはからかうように言った。
「……」
菫子は無視することに決めたらしく、再び机に向き直ってペンを握る。その背中をドレミーの声がはいずりあがって、耳元でささやいた。
「こんなところで努力したって実を結ぶことはないんですよ。夢の中なんですから。ここは」
「……覚めることがないのは夢というのかしら」
「では覚める夢をプレゼントいたしましょうか。ね、私といっしょにベッドで寝ましょ? 今までに経験したことのないような、上質な睡眠が経験できます。なにせ、私は獏です。あなたの悪夢をぜんぶぜんぶ、ぜんぶ、とろけるような甘い夢に変えて差し上げましょう」
「……」
「私がそれをするだけの価値があなたにはあるのですよ。宇佐見菫子……」
パチン、と指を鳴らす音とともに、ドレミーの尻の下からベッドが忽然と消えた。
「おや」
驚いた様子もなく、空中に腰掛けたままドレミーはつぶやく―その白いおでこに向かって視認できないほどの速さでペンがミサイルのように飛んできた。
「あら」しかしそれは頭をすぽんとすり抜け、背後の壁に突き刺さった。
菫子が振り返る。
ドレミーに向かって手のひらをかざす。歯を食いしばり、目はぎらぎら光って虹彩が怪しく光を帯びている。全力で超能力を発揮しているのだ。
ぎち、ときしむ音。
「ア、らあら、そんな、乱暴、な、コ、と……」ドレミーに声がひしゃげて歪む。
ぎち、ぎち。
ぎち。
黒白のドレスを着た少女の上半身が、おかしな風に横に折れていた。ぺきりとへし折られた鉛筆のように。見えない圧力を掛けられて、音を立ててねじれていく。ぎち、ぎち、ぎち。
菫子が手の内で握りつぶすように、5本の指を力を込めて閉じていく。それにつれて、ドレミーの体がぱきぱきとねじれて、くしゃくしゃに捻られて、丸められていく。
「……オ」ぎち、ぎち、ひしゃげて顔はぐしゃぐしゃになっていた。
「消えなさい!」
ぐしゃり、と菫子が手のひらを握ると同時にドレミーが黒白の丸めた紙くずのようになって床に転がった。主を失った赤いナイトキャップが、こぼれたケチャップのようにぺしゃりと落ちる。
静寂。
夢の世界の菫子の部屋に、ふう、と熱っぽい菫子のため息が混ざる。
「―忘れないでください」
はっと菫子は顔を上げた。赤いナイトキャップも白黒の紙くずも、いつの間にか消えている。
ドレミーの声はそこに居たときよりも、重く、なめらかに耳朶を打った。
「宇佐見菫子。あなたは既に夢の虜囚なのですから。世界になじんでもらわないと困るのです。既にあなたの記憶はこぼれ落ちている。これだけ便宜を図ってあげているのですから、少しくらいわたしの仕事に協力してくれていいと思いませんか? せめてつまみ食いくらいは」
「うるさい。消えて」
「ふふ……あなたの夢は非常に心地がいいです。ただ、その超能力はもうちょっと抑えてもらいたいですが……」
くすくすとドレミーの笑い声が遠ざかっていった。
菫子は誰も居なくなった部屋の虚空をにらみつけている。やがて沈黙が場を支配して、ひとつ、ふたつ……数えて、再び吐いたため息から、先ほどの熱はもう失せていた。
念動力でぐしゃぐしゃにしてやったことを、菫子は少し後悔した。妖怪とはいえ少女の姿をしたものが、自分の能力でねじ曲がっていく姿は見ていて気持ちの良いものではない。むしろ、悪夢として見そうな光景だった。きっとわざとだろう。
「判っているわよ……。この、夢の世界から出られないことくらい……」
ドレミーの言うとおりだった。宇佐見菫子は、夢の世界に閉じ込められている。
この部屋も、菫子の記憶にある自室を映し出しただけに過ぎない。窓の外を見れば町の光景はなく、何とも判らない暗闇が茫洋とあるばかりだ。
―この景色もいずれは消える。菫子が記憶を完全に失ってしまえば。
夢に閉じ込められたとき、菫子は多くの記憶を失っていた。普通に活動する分には問題ない。子供のころの記憶もある。しかしアルバムの所々に大きな穴が開いたように、思い出せることが少ないのだ。
そして積層している記憶は、夢の世界に居る時間が長くなるほどに零れ落ちていく。
菫子は机の上に開いたままの、書き殴っていたノートを静かに撫ぜた。
自分の思考を白い紙の上の染みにして残していくことだけが救いだった。自称実践派サークルである秘封倶楽部にしては地味な活動だけれどしょうがない。インクが切れる前に状況が打破できるといいのだが。
机上のスマートフォンもとっくに電池が切れている。その脇に置いてある、引き出しの奥からひっぱりだしてきた安物の腕時計。きちきちと秒針が動いていた。時間の流れも判らない夢の世界の中で、唯一それが外との繋がりがまだ途絶えていないことを教えてくれるものだった。
いや、いまはもうひとつ。
コツ、コツ、コツ、ゆっくりと3回ドアがノックされる。それで誰がやって来たのかがすぐに判った。
「どうぞ」
菫子が答えるとすぐにドアが開いて少女が入ってきた。
彼女が部屋に居るだけで自室が華やいだように感じる。金色の髪に、菜の花色の瞳。すらりとした体躯に、紫色のドレスが落ち着いた彩りを与えている。見目麗しい少女だった。
閉ざされていたはずの菫子の夢の世界に、最近訪れるようになった闖入者。
彼女は名前を、メリーと名乗った。おそらく偽名だと菫子は疑っている。
菫子は椅子から立ち上がると、にかりと笑ってみせた。
「いらっしゃいませ、お嬢様」
「こんばんは、菫子。……ずいぶんと部屋がすっきりしたわね。模様替えでもしたの?」
「ちょっとベッドに邪魔くさいのが紛れ込んでね。いま、戻すわ」
ドレミーとのやり取りで、ベッドをどこかへやってしまっていたのだった。菫子がベッドをアポートして部屋に戻すと、メリーはそこへ腰掛けた。
「それはいつもあなたが言っている獏のことかしら? 悪い悪い魔法使いのような獏」
「そう。なんとかしてここから脱出しなければならない。でも、私ひとりではあいつに勝つこともできない。この世界から抜け出すこともできない」
宇佐見菫子を夢の世界に閉じ込めている張本人はドレミーではない。けれど間接的に状況に荷担していることは、じゃれ合いのようなやりとりのなかで確認している。それもいい加減に飽きて、最近では顔を合わせるのも億劫になってきている。
「出来ることは、日記をつけることだけね」
メリーの視線は、机の上に開きっぱなしになっているノートに向いていた。
菫子は口をとがらせる。「日記じゃないわよ。秘封倶楽部の活動記録。それと考えたことのメモ。まだまだ幻想郷でやりたいことがたくさんあるんだから」
ドレミーが来たせいで中断させられたノートを、ぱたんと閉じる。どうせ時間はたくさんある。一方でメリーが菫子の夢の世界に居られるのは、彼女が眠っている間だけだ。会話を優先させたかった。
メリーがひそりと言う。
「ここも、それなりに良い世界だと思うけれど。だってなんだって思い通りになるじゃない? ねえ、わたしあたたかい紅茶が飲みたいわ」
ふん、と菫子は鼻を鳴らしてイメージする。自分の夢の世界に紅茶がある。あたたかい、琥珀色、香りまでイメージしているうちに机の上に紅茶が現れている。味はティーパックで淹れた程度のものだろうけど。
「それは、メリーが外とここを行き来できるからそう思うのよ」菫子はカップを菫子に手渡しながら口をとがらせる。「ここにはオカルトがない。不思議がない。私の他には誰もいない」
「切実ね」
菫子が夢の世界に生み出した紅茶はあたたかくメリーの舌をぬらす。
「ケーキは何が好みかしら。私はショートケーキが好きかなー」
「うーん……、夜に甘い物を食べると太りそうだからねえ」
「パンケーキもあるわよ。メリーの好きな」
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「シロップはたっぷり、バターも山ほど」
「至れり尽くせりね」
メリーの前に、あたたかく良い匂いのするパンケーキがぽっと魔法のように現れる。ここは菫子の夢の世界。できないことはなんでもできる、うさんくさい世界。
菫子がこんなにもメリーをもてなすのにはもちろん理由がある。
ほわほわと幸せそうな表情でパンケーキを崩しているメリー。対して菫子は先ほどまで取り繕っていた笑顔は剥がれ、不安で仕方がないといった表情をしている。
「ところで、メリーさんや。秘封倶楽部の活動の調子はどう?」
「いつも通りね。喫茶店でお茶を飲んで、ケーキを食べて。楽しいわよ?」
「……真面目にやっているの?」
とってもね、とメリーが答えるけれど、菫子の顔には不満がありありと浮かぶ。
夢の世界に閉じ込められた菫子の前に、突如現れた闖入者。しかも現実の世界の〝宇佐見菫子〟のことを知っており、あまつさえ彼女は〝秘封倶楽部〟に入ったという。
うさんくさいことこの上ないが、菫子には他に縋るものもない。
「ねえ、メリー。お願いよ。あなたの協力が必要なの。私が認めた、秘封倶楽部であるメリー、あなたの能力が」
「わかっているわよ」メリーはシロップたっぷり、山ほどバターをとろけさせたパンケーキを切り崩しながら笑む。「私はそのために来ているのだから」
本当か、と詰め寄りたくなるのを菫子はぐっと堪えた。そう言ってもう2ヶ月は経っているが、一向に状況が打破される様子はない。
「おねがい、メリー」
菫子は、眼鏡を押さえようとして、掛けていないことに気がつく。癖というのは直らないものだ。ごまかすために目をこすり、メリーを見た。
「私の秘密を暴いて」
「わかっているわよ」
そう答えたメリーの手元のパンケーキから、とろりと溶けたバターが皿の上にこぼれた。
本当にわかっているのだろうか。
初めてこの夢の世界で出会ったときから、彼女は掴み所がない。